結局夜おそくまであいこちゃんと喋っていてそのままいつのまにか布団もかぶらず中途半端に寝てしまった。
移動中あまり寝てなかった(そもそも出発時から始発のために寝ていない)ので、 ちょっときつい けど、東京いきの昼のバスがなかったので、 今日は高嶺展をみて、パフォーマンスを見てから12時55分の深夜バスで東京へいくことになった。 * * * * * 仙台メディアテークで開催された展覧会 高嶺格の「大きな休息」明日のためのガーデニング1095㎡ Baby Insa-dongやGod Bless Americaなどの高嶺格の代表的な過去作品と、 今回この展示のために作られたインスタレーション「大きな停止」の2部構成。 「大きな停止」は、視覚に障害のある方のアテンドでのツアー形式。 ツアーの時間は約40分なのだが、これはアテンドの方と、当日集まった参加者で会話をしながら作品に触りながら展示をまわるので、長くなることもあるだろうし、短くなることもあるかもしれない。 そして アテンドさんや、一緒にまわる人によっても体験はかなり変わってくるはずで。 2回参加して2回とも偶然同じ木下さんのアテンドだったけど、やっぱり参加者が違うと当然のことながら会話もなにもかも違ってきて、1回目のツアーでは気づかなかったとこにたくさん気づいたりできた。とにかく展示室内には大きいものから小さいものまでたくさんのものが配置してあって、会話しながら進んでいくので 毎回目のつけどころも、気づく部分も違うのだ。 作品の素材に使われているのは、大正時代に母屋がつくられ、その後時代とともにいくつかの部屋が増築され、そして今年の秋に解体された民家の廃材である。(ちなみに1095㎡というのはこの民家の敷地面積のことで、しかし偶然にも展覧会会場の広さも1095㎡だったらしい) 展示室内は明かりを落としてあって、定期的に鳴る太鼓のような音と、笛の音、点滅するライトが不思議になつかしいような空間をつくりだしている。夕暮れのような。そこに配置される物体 それは解体された民家の廃屋を利用して 骨組みだけ作られた納屋だったり、べつのものに組み直された小部屋だったり。 油ねんどや プロジェクターや そこから投影される青森県(もっといえば六ヶ所村の場所)からヒダがのびた日本の影の映像。 人の顔と、民家の影が浮かび上がる化粧鏡、自転車、扇風機、そしてたくさんの着物と布団。「時よ止まれ」という絵画のページで止められた辞書。団地をうつしたテレビ(映像のなかは夜で、団地の明かりは太鼓の音にあわせて一斉についたり消えたりしている) たくさんの物が、展示室内に並べられている。この家の瓦や、鳥の剥製や味噌瓶やなんやかや。そこを アテンドさんと一緒に歩きながら、「これは何でしょうねー」「このふとん花柄で結構かわいいですね」とか、会話をしながら歩いていく。プロジェクターが温かいとか。 木下さんとまわりながらなぜか、壁にかかっている絵をつかってどれだけ音が出せるかみたいな話になって、つるつるした表面をきゅっきゅきゅっきゅと鳴らしては、「お、やりますねー小山さん」とかへぼな話をしていた。「あ、木下さん、これ押したら軋みますよ」とか。ぶらさがっている布を三つ編みにして「デコレーションですね〜」とか言ったり。変な話ばっかり。 会話はほぼアテンドさんにまかされているようで、本当に、普通に会話だ。 ただ最後だけ、観客が入ってはいけない場所があって、そこでアテンドさんだけが進みでて、儀式のような動きがある。LEDライトとこの家の礎石。そして水場の石。まるでこの家の記憶を沈めて流すかのような儀式。 展覧会はまるで舞台装置のようだった。 そのなかでアテンドさんや観客が ツアーをすることで展覧会として完成する けどそれは完成でもなんでもない。たぶんずっと完成しないままだ。 ツアーがおわっても、打ち上げでも、福岡にかえってきた今でさえ この展示はいったい何だったんだろうと考えている。 展示室の中では全てのものが同じ場所に ごちゃごちゃといってしまえばそうだけど 展示してあった。メディアテークの柱も廃材も瓦もねんども 観客が来るたびにねんどでデコレーションがふえていく自転車も、布団もなにもかも、全て同じように置かれる。ひとつひとつがすごく深い意味があるようでいて、返って意味がふえすぎて曖昧になる。最後にこの家の歴史を明かすことで、展示じたいに意味が生まれ、大きな記憶が現れる。最後の記憶は、それを全て停止させるための儀式なのかもしれない。けれどその大きな意味のなかに、もっとたくさんの小さな小さな意味や物語がたくさんたくさんちらばっている。全ての意味は等価に。 こうやって持ち帰って あれはこれは なんだったんだと考えることが 同じようにツアーに参加した人の話を聞いたり、たとえばボランティアで制作に関わっていた人の話を聞いたりすることも、 大きな停止の一部だろうか。 思考停止せずに カタログでは展覧会の名前が 高嶺格「大きな吐息」怒りのガーデニング1095㎡ になっていた。 * *カタログより * * * * * * * 新製品のニュースは適当にして、蓄積するものたちのニュースをもっと流してくれ。世の中は誰が作ったのかわからないものだらけだ。ガラスがある、以前ならそれをたたき割ってしまうことで表現になっていた。いまはもう、割らない。柱がある、それをぶっ潰さずに腑抜けにする。いまどんなに価値があるとされているものも、いずれゴミになって価値を失う。廃材の山を見て美しいと思うのは、どれも等しく価値がないからだ。感動的均一性。私の実現したいものはそれだ。
by tetoyarama
| 2008-12-24 15:46
| oyama
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